登山家 高頭 仁兵衛(1877~1958)

登山家 高頭 仁兵衛(1877~1958)

 

新潟日報 2014年(平成26年)10月20(月曜日)

 
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名峰に憧れ大辞典編む

先人のふるさと
揺籃の地を訪ねて 39

文化の記憶

 爽やかな秋晴れに恵まれると、南方に魚沼三山が望める長岡市深沢町。渋海川沿いの田園地帯の一角に、堀に囲まれ、大きな杉林が残る公園がある。公園の名は河内公園。日本最初の山岳百科辞典「日本山獄志」を出版し、わが国初の山岳団体「日本山岳会」の創設メンバーに名を連ねた登山家高頭仁兵衛の生家跡だ。
 地元の学校建設や信用組合設立などに多額の私費を投じて「河内の旦那様」と呼ばれた高頭は、日本山岳会を財政面で支えたことから岳人からは「越後の旦那様」と慕われた。公園に立つ頌徳碑は郷土の篤志家を今に伝える語り部であると共に、日本近代山岳史に名を残した希代の山男が当地に生きた証しでもある。

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岳人支えた長岡の豪農

 高頭仁兵衛は1877(明治10)年、三島郡深才村(現長岡市)の豪農の長男として生まれた。幼少期から祖父母の影響で漢詩や俳句に親しんだ。歴史書を好む文学少年が山登りに目覚めたのは片貝高等小学校(現小千谷市)時代。登山家でもあった恩師太平晟(あきら)との出会いがおおきなきっかけだった。
 13歳の夏、太平の引率で弥彦山に出掛けた。眼下に広がる越後平野の先から、飯豊連峰や粟ヶ岳、守門岳など新緑の峰々が目に飛び込んで来た。「その雄渾な眺望に登山の趣味を初めて解して山が好きになった。」後に高頭は、雑誌「山と渓谷」のインタビューに少年期の感動をこう答えている。
 富士山や八海山など名峰踏破に熱中していた21歳の時、後継ぎの遭難を案じた母親から突如“登山禁止令”を出されてしまう。厳格な家風で親の言葉は絶対。穏やかな性格でもあった高頭は親の反対を押し切ろうとはせず、山登りを一時中断する。当時の心境について、高頭は「もしも此の事がありませんでしたならば、拙者の登山癖は案外に短時日で終はったのかも知れません」と、日本山岳会の記念詩に述べている。
 この登山中断期への渇望感が山岳辞典出版への大きな原動力となり、数年後、高頭は「日本山嶽志」の執筆に乗り出す。山岳関係の地理書や紀行本を買い集めては日夜読みふけり、時には各地の古老を訪ねて山の歴史の取材にも当たった。陸軍陸地測量部に出掛けて山の位置や標高を確かめる日もあった。
 1906(同39)年、約6年の歳月をかけて1360ページに及ぶ大著を刊行。網羅した山は2130座にのぼり、各山の歴史や通説、地質などを盛り込んだ。編さんのために収集した資料は3万点を数え、屋敷の蔵が満杯になったといわれている。
 高頭は大正期に「日本太陽暦年表」(上下巻)「御国の咄」などの著書も出版。いずれも国史書に精通した文人らしい読み物になっている。長岡市立図書館が所蔵している高頭の著書を調査したことがある金垣孝二館長(49)は「『日本山嶽志』をはじめ、どの著書も数多くの文献に当たった様子がうかがえ、研究者肌の人物像が伝わってくる」と語る。

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「日本山嶽志」の編集を通じて、当時、登山界の第一人者だった小島烏水らと知り合った高頭は、その縁で05年の日本山岳会設立に参画する。千人分の年会費に当たる千円を山岳会に寄付。18年間、同様の財政援助を続け、北アルプスや海外登山の実績を重ねて33年に2代目会長に就任した。
 山の世界で著名人だった高頭だが、長岡では自らの自慢話はせず、晩年は病を患い大邸宅の中で静かに暮らした。元深才公民館館長の高頭清雄さん(91)は、高頭仁兵衛邸を訪ね言葉を交わした日のことを鮮明に覚えている。「口数が少ない人で口調は穏やか。僧侶のような風貌で謙虚な旦那様でした」と振り返る。

メモ

高頭仁兵衛の本名は式(しょく)。実家は代々当主が「仁兵衛」を名乗り、9代目を継いだ。1958(昭和33)年死去。生前、日本山岳会越後支部などが中心になって弥彦山の大平園地に高頭のレリーフがはめ込まれた寿像碑を建立した。毎年7月25日、同園地で県山岳協会など主催の「高頭祭」が開かれている。
 【参考文献】高頭式著「日本山嶽志」、日本山岳会編「日本山岳会百年史」、長岡市編「ふるさと長岡の人びと」、「山と渓谷」(第125号)ほか。