人は見た目である。
「人は見た目で判断してはいけない」という言葉ほど説得力のないものはない。見ず知らずの他人は、話してみて、よく理解することが肝要であるということを促すほどの意味ではないか。人は自然に視覚からの情報で瞬時に対象物を判断し、自分の勝手気ままな分類で仕分けを試みている。花を見たとき「赤くて綺麗」「緑が鮮やか」など、情報はあっというまに脳に伝わり、その花の印象を決定づけてしまう。そこに恣意的な理性が入り込む隙はないように思う。その次に花が枯れ、グロテスクなざまを見せるまで、見た人の印象を覆らせることはないのである。 人の見た目となるから少しややこしくなる。
親父は長年の苦労が実り、ラーメン屋は繁盛し、店を新しくすることになった。すぐ近くにある空き家の敷地へ、駐車場付の新店舗を建てたのである。そしてこの時を契機に、親父は代を息子に譲った。息子はといえば長い髪を縮れ毛に、茶髪、アゴひげ、耳にはピアスという、まあどこの田舎にもいそうな「ちゃらいあんちゃん」である(ちなみに親父も白髪かくしで茶髪に染めている)。しばらくぶりと思い、新店舗の見学を兼ねて食べに行ったが「こんな味だったかなあ?」が食べ終わった率直な感想である。悪いのは、代替わりしたその息子の印象と味がドッキングしてしまったことで「代が変わって味も変わった。もう行かなくていいかな」と自然と感じてしまったことである。
実はラーメン屋は親父の弟も店を構えている。3kmほど離れた別店舗に弟夫婦が、同じのれんと屋号で商売をしている。こちらの店舗といえばいまだに「むかしながら」である。弟夫婦も息子がおり、ラーメン屋を手伝っている。ダシのスープ割などをてきぱきと手伝ってはいるが、肝心な麺ゆで作業などはまだ親父が仕切っているので、もちろん味はまだ昔のままだ。凛々しい顔立ちに、隙のない仕事ぶりで、いかにも好感あふれる態度でお客と接しているせがれ。ひげ、ピアスなど飾り気は一切ない。いずれ、せがれに引き継がれることは間違いないだろうし、いつかこのせがれが自分で茹で上げたラーメンをつくる姿を私は楽しみにしている。きっと味も食い応えも最高と思ってしまうのである。